たびごころ

旅と心、ちょっぴりスローライフ。癒し人が語ります。

中央線沿いのさんぽに学ぶ、「知ること・気づくこと」は「共感」であり強力な癒しかも、というお話

こんにちは。
女子力高めのイケオジ癒し人、恵守真史(えもりまさひと/まぁ)です。
このブログでは、心理、旅、スローライフなどを通して、こころがちょっぴりほっこりする、そんなお話をお伝えしていきます。

<ご注意>
今回は若干スピリチュアル、精神世界的な内容・感覚を含む内容になっています。ご興味のない方はお手数ですが、戻るボタンでお戻りいただけますと幸いです。
また、感覚が鋭い方はネガティブな影響を受けるかもしれません。ご自身の状態にご注意いただき、不安な方は改めてお越しいただけますと幸いです。

 

さんぽ中に感じた違和感

初夏を思わせるような青空が広がっていた四月のある日、ぼくは中央線の線路沿いをのんびりさんぽしていました。
駅から離れるにつれ、通りを歩く人はひとりまたひとりと家路へと向かい、目の前を歩く人は少なくなっていきます。それに比例して、道幅も狭くなっていきました。
狭くなった通りを歩く人たちが目の前に誰もいなくなったころ、なにか気持ち悪いというか、イヤな感じがしてきました。そわそわするというか、しっかり味わっていないのでうまく言語化できませんが、とてもイヤな感じです。
理由もわからず、イヤな感じもおさまらず、早くこの感覚から逃れたくてぼくはとりあえず線路沿いの道から住宅街の小道に入り、歩を進めました。
すると、さっきほどイヤな感じがない。良かった、このままのんびり歩いていくか、と思った時です。

 

違和感の正体?

住宅街の小道の少し先の方に、赤い小さなお社が見えました。小さなお社は、都会では珍しくありません。そしてそのお社は、遠目から見て荒れているように見えました。
鳥居や柱が傾き、倒れ掛かっています。それ以上倒れてこないように、ロープでくくっているだけで、なにもされていません。修復されることもなく、思い切って撤去(この日本語が適切かわかりません)するわけでもなく、ただただ、ほっておかれているような感じです。
そして、線路沿いを歩いていた時のイヤな感じの正体が、わかった気がしました。だぶん、このお社の気配を感じていたようです。
そしてこころの中で、「えらいもんに会ってまったな・・・」と心苦しく思いました。
どうしていいのかわからないから、あまりお社を見ることはせず、そして意識もあまり向けないように通り過ぎました。
通り過ぎるとイヤな感じが抜け、ふっと軽くなるのを感じました。

 

知ること、気づくことの癒し

1978年の日本レコード大賞ピンク・レディーが受賞し、彼女たちは涙を流しました。でもその涙は、レコード大賞を受賞したからではなく、司会の高橋圭三さんの言葉にあったそうです。

この2人はご存じのように、デビュー以来、圧倒的な人気を誇り続けてまいりました。しかしその影には眠る時間も削って、そして病も押して歌い続けたということを私たちは知っております。しかも、いつでも笑みをたたえ、そして全力投球で歌いました。

自分たちのことをずっと見てくれている人いる、わかってくれている人がいる。そう思うとピンク・レディーのおふたりは、とても報われた気がしたそうです。

車が行き交う幹線道路を抜けケヤキ並木の通りに入ると、ケヤキの樹々が初夏を思わせる空に向かってどこまでも伸びていました。ちらちらと差し込む木洩れ日、樹々のすき間からこちらを覗き込む青い空、春の訪れを祝福する鳥たちのさえずり。生命の息吹を感じながらもおだやかなこの情景に、ぼくは思わず足を止めました。

よく心理学や精神世界では、「気づくだけでいい」と言います。気づけば問題の90%は解決しているから、と。
ようやくこの言葉の意味がわかった気がしました。
気づけば、それで良かったんです。知ることが大事だったんです。
このお社を通り過ぎて気持ちが軽くなった時、ふと、「そっか、このお社は知ってほしかったんや。気づいてほしかったんや。なにもされず荒れてまっとるこの場所を。こんな場所が残されとることを。ただ、それだけやったんや」と思いました。
そうです、ぼくたちは知ってもらうだけで、気づいてもらうだけで、ただそれだけで救われることがあります。
なにかしてほしいわけでもなく、ましてやアドバイスなんかほしいわけでもなく、ただ知ってもらえるだけで、気づいてもらえるだけで、ただそれだけで共感されたと感じ、孤独という暗闇からから抜け出し、前に進む力を得られたりするものです。
知るだけで、気づくだけでいいんです。

 

知るだけでは納得できないのはなぜ?

ぼくは荒れたお社を見た時、心苦しく思いました。
ひとつは荒れたままなにもされず、無残さのようなものを感じたことに。
そしてもうひとつは、お社を救わなければいけないのではないか、この状態を良い方に回復させなければならないんじゃないか、と頼まれてもいないのに、勝手に責任を負ってしまったことに、です。
ですが、お社はぼくに救うこと、例えば写真を撮ってSNSで拡散して、市民を立ち上がらせ再建するように仕向けることなんて、期待してなかったと思うんです。
でなければ、お社の存在を知っただけで軽くなることはなかったと思います。

必要以上に責任を負い、助けなければと思ってしまう方たちはきっと、子どものころから親を守り、助けてきた方が多いのではないかと思います。そして、困っている人を見るとなんとかしなければいけないと、無意識に思ってしまうのではないでしょうか。
どれだけ親を助け、味方しても、悲しみを抱えたままの姿を見てきたから、そう思ってしまったのでしょう。そして、救うことができない自分に無力さを感じ、罪悪感を覚えてきたのではないかと思います。
人は本来、自分で問題を解決できる存在です。だから、相手の責任を負うことも、相手の問題を解決しようとしなくても、救おうとしなくてもいいんです。
だけど、助けが必要な時はあります。寄り添ってほしい時があります。だから、ただただ相手を知り、気づくだけでいいんです。
ぼくたちはこれまでの人生の中で、共感は強力な癒しであることを知っています。
相手は自分で自分の問題を解決できる尊い偉大な存在であると知り、自分とは切り離す。そして、相手のこころ、気持ち、現状などを知る、気づく、寄り添う。それが共感であり、癒しを起こします。

そしてそれは、自分自身にも言えます。自分のこころ、気持ちを知る、気づく。今まで知らなかった、気がつかなかった自分のこころ・気持ちに共感することで、癒しは起きます。
今、あなたはどんな気持ちですか? どんなことがしたいですか? 今日はそっと、自分のこころにふれてみてはいかがでしょう。

 

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