たびごころ

旅と心、ちょっぴりスローライフ。癒し人が語ります。

こころの世界との出会い(1/2)

ぼくの人生をざっとお伝えすると、幼少期から運動も勉強もできない劣等生として生き、母からは怒鳴られ殴られ否定され、小学生でいじめに遭い、社会人ではパワハラモラハラに遭い、ニートになり、転職をくり返し、アラフォー非正規雇用を経験したりと、おおよそ人に話せない、自慢もできない内容になります。
自己開示できないため友人もおらず、パートナーいない歴は2022年現在で17年。もう、数えるがめんどくさくなりました。

社会人となり最初に勤めた企業では仕事が自分に合わず、退職を何度も口にするも、「お前なんかここ辞めても、どっこも使ってくれるとこあらへんのやで、ここにおれ」という社長の言葉を否定できず、やがて体調を崩し入院しました。
死にかけて入院したことで、やっと退職が許されました。

退職し明るい光が差していたかというと、ぼくの目の前の道は相変わらず真っ暗で、むしろより重い気分になっていました。
自分に自信がなく、自分を認められず、やってみたいと思う仕事にもチャレンジできません。
かと言って、今までのように望まない生き方もできず、ぼくはニートになり、働いていない罪悪感というさらに重たい荷物を抱えることになりました。

はじめて根本裕幸さんのセミナーに参加した2019年8月末の東京ドーム付近の空。秋の気配が近づいていました。

ここまで底辺を生きていたのであれば、もうそれがさだめだといい加減に受け入れてもいいはずなのに、ぼくはそれを受け入れられずにいました。
高校時代は部活(吹奏楽)と授業中を利用した漫画原作(シナリオ)の執筆に熱中し、人生ではじめて「楽しい!」そう思える時間を過ごしていたからです。
だから、「このままじゃイヤや。あの時のように、楽しく生きてたい」と、人生も自分もあきらめられず、でもなにもできず、ただもがき、苦しい思いを抱えていました。

その時、ぼくは思っていました。
人はなぜ生きるのか。
なぜ生きる必要があるのか。
親が言う通り、食べるためだけにやりたくないことを、死にかけてまでやって生きていかないといけないのか。
はたしてそれが、人生と呼べるものなんだろうか。
それをするために、わざわざ人間に生まれて来るんだろうか。
やりたいことをやって、生きていってはいけないのか。

そして、ふと思いました。
「・・・俺のやりたいことって、なんやろ・・・」
ぼくはそれに答えられずにいました。

「そんなん、どうでもよくね!?」「そんなこと言っとる暇があったらとっとと働け」と言われそうな問いだけど、それでもぼくは答えがほしくて、本屋や図書館に足を運んでいました。
答え探しがはじまったある日の図書館で、心理学か精神世界の本を手にすると、こんな言葉に出会いました。

「seeing is believing(百聞は一見に如かず)」ではなく、「believing is seeing(信念が現実になる)」である。
あなたが自分自身を無価値に思っていると、あなたを無価値に扱う人が現れる。

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