たびごころ

旅と心、ちょっぴりスローライフ。癒し人が語ります。

こころの世界との出会い(2/2)

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「seeing is believing(百聞は一見に如かず)」ではなく、「believing is seeing(信念が現実になる)」である。
あなたが自分自身を無価値に思っていると、あなたを無価値に扱う人が現れる。

これを見た時の衝撃は、今も忘れられません。
それはまさに、ぼくの人生そのままだったからです。
ぼくはそこに、真理、真実があるように感じました。

それからぼくは、少しの心理学の本とたっぷりの精神世界の本を図書館で借りては読みあさりました。
自らの問いの答えを知りたかったのはもちろんですが、己を鼓舞してくれることば、希望が湧きあがることば、自分を許せるようなことば、まさに人生や自分自身をを言い当てたことば、一般的な観念にはない人生のもっと奥深いところにあると感じられる真理・真実のことば、そんなことばに出会い、知らないことを知っていくのが楽しかったのです。
そう、もっと自分のことを知りたかったのです。

読んだ本の中で、気になったことばを書きとめていました。200ページくらいあります。

やがて社会復帰し、それからもうまくいかない人生をなんとかしたくて、ブログ(主にスピリチュアル系)を読んだり、スピ系のセミナーに行ったり自己啓発系のスクールに通ったりし、2018年の秋ごろカウンセラー根本裕幸さんを知りました。

スピリチュアルの世界で「愛」ということばは、よく聞きます。
でも、カウンセラーの根本裕幸さんほどわかりやすく愛を見せ、教えてくださった方はいないように思います。
2022年5月に「問題解決のための2daysセミナー with ジュンコ」に参加し、根本さんと心理カウンセラーのジュンコさんを通して、ぼくははじめてカウンセリングにふれました。

ご相談者の悩みや生い立ち、根本さんやジュンコさんとご相談者のやり取りを見聞きする中で、こんなことを感じました。
どの人にも愛がある。
たしかにある。
でも、それに気づいていない。
愛するために生まれてきたのに、その愛を受け取ってもらえず、よろこんでもらえず、愛しているからこそ傷つき、愛しているから愛する人によろこんでほしくて、自分ではなく他の誰かになろうとして生きている。
だから苦しい。
傷つくのも苦しいのも、ただ愛があるからなんだ。

こころの世界ってやっぱりおもしろい。
もっともっと知りたい。
そして、自分もその人の中にある愛を見つけ、照らしていきたい。
あなたはただただ愛の存在なんだ、と伝えたい。
セミナーの間、ぼくはそんなことを感じていました。

愛から人やできごとを見る。
ぼくはそんな今まではとは少しちがう、こころの世界に出会いました。
この道を歩き見えた景色、聞こえた音、感じた思いを、伝えていきたいと思います。

 

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こころの世界との出会い(1/2)

ぼくの人生をざっとお伝えすると、幼少期から運動も勉強もできない劣等生として生き、母からは怒鳴られ殴られ否定され、小学生でいじめに遭い、社会人ではパワハラモラハラに遭い、ニートになり、転職をくり返し、アラフォー非正規雇用を経験したりと、おおよそ人に話せない、自慢もできない内容になります。
自己開示できないため友人もおらず、パートナーいない歴は2022年現在で17年。もう、数えるがめんどくさくなりました。

社会人となり最初に勤めた企業では仕事が自分に合わず、退職を何度も口にするも、「お前なんかここ辞めても、どっこも使ってくれるとこあらへんのやで、ここにおれ」という社長の言葉を否定できず、やがて体調を崩し入院しました。
死にかけて入院したことで、やっと退職が許されました。

退職し明るい光が差していたかというと、ぼくの目の前の道は相変わらず真っ暗で、むしろより重い気分になっていました。
自分に自信がなく、自分を認められず、やってみたいと思う仕事にもチャレンジできません。
かと言って、今までのように望まない生き方もできず、ぼくはニートになり、働いていない罪悪感というさらに重たい荷物を抱えることになりました。

はじめて根本裕幸さんのセミナーに参加した2019年8月末の東京ドーム付近の空。秋の気配が近づいていました。

ここまで底辺を生きていたのであれば、もうそれがさだめだといい加減に受け入れてもいいはずなのに、ぼくはそれを受け入れられずにいました。
高校時代は部活(吹奏楽)と授業中を利用した漫画原作(シナリオ)の執筆に熱中し、人生ではじめて「楽しい!」そう思える時間を過ごしていたからです。
だから、「このままじゃイヤや。あの時のように、楽しく生きてたい」と、人生も自分もあきらめられず、でもなにもできず、ただもがき、苦しい思いを抱えていました。

その時、ぼくは思っていました。
人はなぜ生きるのか。
なぜ生きる必要があるのか。
親が言う通り、食べるためだけにやりたくないことを、死にかけてまでやって生きていかないといけないのか。
はたしてそれが、人生と呼べるものなんだろうか。
それをするために、わざわざ人間に生まれて来るんだろうか。
やりたいことをやって、生きていってはいけないのか。

そして、ふと思いました。
「・・・俺のやりたいことって、なんやろ・・・」
ぼくはそれに答えられずにいました。

「そんなん、どうでもよくね!?」「そんなこと言っとる暇があったらとっとと働け」と言われそうな問いだけど、それでもぼくは答えがほしくて、本屋や図書館に足を運んでいました。
答え探しがはじまったある日の図書館で、心理学か精神世界の本を手にすると、こんな言葉に出会いました。

「seeing is believing(百聞は一見に如かず)」ではなく、「believing is seeing(信念が現実になる)」である。
あなたが自分自身を無価値に思っていると、あなたを無価値に扱う人が現れる。

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こころの旅のはじまり

有給休暇を取った今日、ぼくは汗だくになりながら掃除を終えると、日用品の買い出しに商店街を歩いた。

いつもぼくが見ている休日の商店街とは景色が異なり、ランチを終え事務所に戻っていくであろうビジネスマンたちがあちこちにいた。
それ以外にも、休日にはやっていないお店が開いていたり、ランチ営業をしているお店があったり、そこにはなんだかうまそうなカレーがメニューにあったりと、この街はぼくが今まで知らなかったいろんな顔を見せてくれた。

買い物を終え空を見上げると、名前がわからない秋っぽい雲が澄んだ青い空の上を浮かび、反対を見ればまだ夏は終わっていないとばかりに入道雲がその姿を誇示していた。
晩夏の空というキャンバスは、いろんな絵の具に満ちている。

ふと見上げると、驚くような青い空のうえに秋の雲が広がっていました。

ぼくたちはつい、片面や一方向からものごとを見てしまい、本当のことがわからなくなったりする。
殺意を覚えるほどの怒りの奥には、実はさみしさがあったり、でもそのさみしさに気づいていなかったりする。
さみしいのはつらいから、感じたくない。ないことにしたい。だから、さみしさは悪いものと決めつけ、寄せつけないようにしたり、気がつかないようにしたりもする。

そんなさみしさの奥には、純粋なやさしい気持ちとか愛があったりする。
大好きだからいっしょにいたい。もっと、ずっといっしょにいたい。大好きやから、笑ってほしい。元気になってほしい。大好きやから。そんな思いとともに。

6年住んだ街にもまだまだ知らない顔があり、東西北の空は秋色でも、南は夏空だったりする。
同じようにぼくたちの心も、違う角度から見てみると知らなかった感情が見えてきたりする。

もし今、なにか苦しかったり、つらかったり、毎日が無味無臭に感じるのであれば、心の中をいつもと違う角度から覗いてみるといいのかもしれない。
怖いし、見たくないかも知れないけど、だいじょうぶ。
そこにいるは、あなたの大切な人をただただ懸命に愛した自分なのだから。

 

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